小説にもなった冒険者
ダニエル・ブーン アメリカ西部における初期の開拓者としてケンタッキーを探検し、狩猟する。彼の勇敢な冒険談が小説にも書かれ、アメリカのみならず、世界的にも有名になっていった。 |
| ダニエル・ブーンは、熱心なクェーカー教徒の両親の息子としてペンシルヴァニアの田舎で生まれる。 農夫であり、鍛冶屋である両親から鍛冶屋の手ほどきをほんの少しだけ受けただけで学校教育は殆ど受けなかった。 狩猟と原野を愛し、独立心に富んでいたダニエルは、既に13歳の時には、狩猟をし射撃の名手であったという。 1750年には、両親と共にノースカロライナへ引越す。 途中、英仏戦争が勃発し、彼も参戦した。 アメリカ大陸でイギリスとフランスがそれぞれインディアンを味方につけて行なった、植民地戦争(フレンチインディアン戦争)であり、ダニエルは、冒険を求め、エドワードブラドック将軍の率いるイギリス軍に加わり、フランス軍の築いたデュケーン要塞(今の ピッツバーグ)へと遠征した。この時、ヴァージニア植民地の若き士官ジョージ・ワシントンもブラドックの幕僚になっていたそうである。 だが、イギリス軍は、フランスとインディアン軍の不意打ちを食らい、完膚なきまでに打ち破られてしまった。ブラッドックは戦死し、イギリスは敗北、彼もやっとの思いでノースカロライナへ帰還する。 1756年には、近所のレベッカ・ブライアンと結婚し、父親から農地を買ったものの、真面目に農業に従事する事もなく、ダニエルの生活の殆どは、狩猟と冒険であった。 ケンタッキーの地には、ダニエル以前に多くの白人開拓者達が行っていたが、彼の冒険談が半ば伝説化し今日に残っている。 彼が初めてケンタッキーに狩猟にでたのは、1767年頃で、3年後仲間と共に再び、狩猟の為ケンタッキーを訪れる。 1775年ダニエルと28人の仲間は、トランシルバニア会社に雇われ、たびたびインディアンの襲撃にあいながらもウィルダネス・ロード(荒野の道)を切り開く。 「人が多すぎるよ、込みすぎだよ、俺はもっと肘を伸ばせる場所が欲しい」という、彼の有名な言葉は、次々と土地を失い、最後の土地まで失った1799年、また西へ向い旅立った彼が65歳になった時嘆いた言葉である。 |
小説や映画の中でのダニエル・ブーン
| 1784年ダニエルがまだ、ケンタッキーで活躍していた頃、ジョン・フィルソンという、学校教師が「ケンタッキーの発見と植民と現状」という題でダニエルが一人称で語るという自伝風のモノをだした。ダニエルは前に述べたように学校教育を殆ど受けていない。 ところが、この「自伝」は、むやみと高級そうな文学的表現を連ねた代物である。 しかも、これが間もなく、フランス語やドイツ語に訳され、彼の名をヨーロパでも有名にした。 ダニエル自身もこれを愛したらしく、(?)晩年になってもその内容について「全部本当!あらゆる言葉が本当!一言も嘘は無い!」と言っていたという。 この「自伝」によると、彼は、ケンタッキーが間もなくアメリカの中で最も優れた強く豊かな州になると確信し、自分の苦労は、住民の愛と感謝によって報われるとい思いを抱く人間となっている。 1813年には、ダニエルの親戚にあたる、ダニエル・ブライアンなる男が「山の詩神〜ダニエル・ブーンの冒険、及び、高潔な洗練された美の力」という叙事詩を出し、その中でダニエル・ブーンの冒険を歌った。 この作品は恐ろしく大袈裟な美辞麗句を連ねたモノで、さすがの本人も辟易したらしい。 この作品でも彼は、天上の天使達より、アリゲニー山脈を越えて「文明」を伝播する為に選ばれた人物となっている。 伝説は彼の外見までも美化していく。 ダニエル・ブーンは、身長173センチ、体重77キロであり、アメリカ人としては決して大きい方ではなかった。しかし鳥類学者として名高いジョン・オーデユボンは、「鳥類学的伝記」(1839年)の中でダニエル・ブーンに会った時の事を書いているが、それによると、ダニエル・ブーンは、背が高く、肩幅広く、筋骨隆々の「巨人」に見えたという。 力強い開拓者という、イメージが科学者の目までのくらました事になる。 ダニエル・ブーンを見た事の無い人々は、空想の中でますます彼を巨人にしていった。ハリウッド映画 1966年製作「西部の男 ダニエル・ブーン」に主演のフェス・パーカーは、身長193センチ体重107キロという目を見張らせる身体である。 |