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メイフラワー号から始まったアメリカの独立
ヨーロッパの宗教革命の背景
 
アメリカ建国神話となったイギリス人清教徒巡礼 メイフラワー号

始めに ドイツから始まった宗教改革

イギリスのアメリカ大陸進出を語る上で重要な歴史的背景としてヨーロッパの『宗教革命』が大きな背景になっている。 そこでイギリスがアメリカ植民を行うにあたっての当時の事情を簡単に説明。


カトリックと新しい宗派
簡易版ですいません!(汗)

カトリック
ルター派
カルヴァン派
教義
教会を最重視
教皇至上主義
善行による救済
聖書中心主義
教皇の権威を否定
聖書中心主義
『予定説』
教会
教皇
大司教
司 教
司  教
司   祭
信      者
司教
牧師
信者
長老(信者代表)

監督 選出
  

信者
支持層
教皇・皇帝派
  ↓
西ヨーロッパ全土に広まる
(特にイタリア・スペイン)
諸侯・自由都市
裕福な市民層
   ↓
ドイツを中心に広まる
新興市民層
知識人
  ↓
イギリス・フランスを 中心に広まる
1620年アメリカ初期の歴史において画期的な事件が起きた。
現在のマサチューセッツに当たるニュープリスマに12月11日イギリスより入植者集団がメイフラワー号でやって来た。
彼等がアメリカに来た目的は儲けや生計の為ではなかった。彼等は清教徒であり(ピューリタン Puritan) その両方とも『神のお恵み』と受け取っていたが、それよりもまず地上に神の国を創り出す為だった。
彼等はユートピア追求者であり聖者であり、そして一途で自らの力のみを頼りに勇敢に立ちあがった。
ピューリタン
Puritan
16世紀後半、イギリス国教会の宗教改革をさらに徹底させようとした国教会内の一派およびその流れをくむプロテスタント各派の総称。ピューリタン革命の推進母胎となった。その一部は信仰の自由を求めて、一七世紀前半に北アメリカへ渡り、ニューイングランドを開拓した。清教徒

彼等とその子孫はアメリカの伝統を形成する一つの大きな要素として、独創的 観念的で石頭で短気で時には激しく自説に固執するあまり身の破滅を招くに至る。 建設的であり、時には計り知れない創造力を発揮するが逆に時には社会と国家の危機をもたらす事もある。

メイフラワー号は古いワイン運搬船でボルドーからロンドンへ赤ワインの樽を運んでいた。 それを雇ったのはカルヴァン主義者(左枠参照)グループで全員イギリス人で殆どがロンドン出身だが中にはオランダへ亡命していた者も入っていた。
ウィリアム・ブラッドフォードとウィリアム・ブルースター率いる入植者の内35名は ピューリタンの非国教徒で、カルヴァン主義を信じている為主教の管理やイング ランド教会のカトリックまがいの教えに服する事を清く思わない人々であった。
彼等は信教の自由を求めてキリスト教の団体としてアメリカへ行くのである。 ある意味で個人ではなくて共同体と呼べた。

カルヴァン主義
6世紀半ばプロテスタントの宗教改革の方向を決定付けさせたものは、マルティン・ルターより急進的な論理に基 づくカリヴィニズム(カルヴァン主義)であった。  フランスのジャン・カルヴァンはルターが主張する思想に共感を覚えた。彼はフランスから退去させられ 数年間各国を巡った。
1536年宗教改革の一人、ギョーム・ファレルの招きでジュネーブに 移った。  彼はこの地でラテン語の著作の
予定論を出版し代表作となる。
★全ての人間は信教によってのみ義認されるが神は誰を義認するかは前もって決している。 救済は神の永遠の決定に属し神により『
ある者は永遠の命を、ある者は永劫の 懲罰を運命づけられてている。』人間の行動は神の決定を変更する事は出来ないもののカルヴァンは神への絶対的な帰依に結びつく善行の実施を求めてる。


彼等は家族揃って海を渡ったが家族を単位として移住したのはこの植民地が最初である。
ヴァージニア会社から3万2千ヘクタールの土地をはじめとして重要な漁業権、インディアンとの交易許可、そして広範な権限を持つ自主管理体制をつくる権利を獲得した。
ピュータンでない人々66人が同行して入植者全体は41家族からなる。 船には家族用の小屋20軒分程のベッドやテーブルやイスを始めとして犬、山羊、羊、大量の調味料、オートミール、干肉と干魚等が積み込まれていた。
乗組員は大工、鍛冶屋等がそれぞれ道具を携えていた。

メイフラワー号がイギリスを出発してから2ヶ月経過した頃船内の混雑による不快感から紛争が勃発しそうになった。
11月21日、リーダー達が部屋に集まって団結を保つ為、そして将来の施政に備えて契約書を作成した。
結果的にこれが教会の教えに基礎を置く『公正かつ平等な法律』
を提供する一般市民の統治対を創りだしたが、そこでは宗教的統治と世俗的統治は事実上見分けがつかない。
この契約はもとをただせば、神がイスラエル人と結んだ聖書の契約を基礎としていた。 
太平洋上の厳しい環境の中の小さな船の中で植民者達が創り出したこの文書は優れたもので全41家族の『あるじ』が署名している。  彼等がいかに真剣に自分達の約束の地を求めていたがわかる。
この契約は使用人と主人、又は人民と君主ではなくて同じ目的を持った人々の集団と各個人の間にて結ばれている。
神がその立会い者であり象徴的な連著者という形である。

ウィリアム・ブラッドf−ド指導者の1人ウィリアム・ブラッドフォードは後に『プリマス植民地』の中で初めて彼等を巡礼者(ピリグリム)と呼んだ。
しかし普通の巡礼者は聖地へ旅した後、帰って来て日常生活を再開する。 それに対して彼等は新たに聖なる地を建設してその国を千年王国という目標を持って前進しようという永遠の巡礼者であった。 ヨーロッパがキリスト教の教えを裏切ったのに対し自分達は例外だと考え、そうあり続けようとしての行動だった。
ピリグリム達の背後には、イギリスのスポンサーが何人かいた。その代表格がウォリック伯・サー・ロバート・リッチである。
1612年に25歳でヴァージニア会社に加わり後にはピューリタン革命の時、議会軍の海軍司令長官となった。
リッチは、ピューリタンで知られるケンブリッジのエマニュエル・カレッジの卒業生であり信仰心が強かった。
志しを同じくする上流階級の人々と共にリッチはイギリスを改革したいと思っていた。 しかしもし不可能ならば次善の改革としてアメリカ大陸で正しい植民地をと、考えていた。 1620年代を通じてリッチは信仰心深い入植者の集団つくりに立ち上がる。ロバート・リッチ
主にイギリス西部地方、イーストアングリア及びエセックス、そして厳格なプロテスタンティズムが最も強かったロンドンからアメリカでの冒険を引き受けようという人々を集めた。
1623年リッチはイギリス南部ドーセットの男女の集団にニューイングランドへ行く様勧めた。 彼等はアン岬に上陸後1626年にノムケッグ植民地を創る。 ドーセットの牧師でこの遠征隊の組織化を手伝ったジョン・ホワイトは『様々な危険、障害を冒してでも民を冒険に向かわせる唯一最大の理由は宗教』だと主張し『植民地建設において最も優れた望ましい目的は宗教の普及』と説いた。
この事業が成功した事により1628年に3回目のピューリタン移住が挙行された。セーレムの植民地が創られた。
1629年3月4日これらの航海を組織していた人々が国王の特許状のもとにマサチューセッツ湾会社を創ったがこの会社は完全に大西洋の向こうへ会社自体を移転する権限を持っていた。
即座に350人と大量の食糧、道具類、武器を積め込んだ6隻の船が派遣される。
しかし1630年に700人の入植者を乗せて出発した大船団に比べればこれは特別大きなモノでもなかった。これが一連の大船団のハシリで1630年代の終わりまでには合計200隻を数える船が二万人のイギリス人男女をニューイングランドへと運んだ。
それまでのイギリス史においては最大の外国移住である。
初代総督ジョン・ウィンスロップ
こうした初期の船団の中で、新しい行動様式を創ったという点で最も重要なのは、1630年にジョン・ウィンスロップが率いたものである。
ウィンスロップはピューリタンの移住については傑出した人物であり、アメリカ最初の“偉人”である。 ジョン・ウィンスロップJohn Winthrop (1588-1649) マサチューセッツ湾植民地 初代総督 
これまでの植民が失敗に終わったのは、『現世的で宗教的でなかった。』為だったとウィンスロップは論ずる。
改革された宗教の名のモトに指揮される事業でないと見込みが無いという事である。
1629年7月末ウィンスロップは 前出のマサチューセッツ湾会社に加入した懸案の新植民地は自治を行いイギリスの後援者達に対する責任を負わないと決定された時である。 特許状によれば会社は1年に4回の総会を開催する権限を持ち、そこで法律を制定し新しい自由民、または構成員を選び、総督、副総督、及び18人の役員を選出し布告を行い『政府及び行政の形式や儀式』を定め、植民地全住民を『イギリスの法律に反する』事の無い範疇で『矯正し罰を与え許し、また統治』する。植民地が自治を行うという決定が決め手となってウィンスロップはグロトンにあった地所を売却し全財産をこの事業につぎ込んだ。 その決断力と手際のよさに関係者は目を見張り10月にはウィンスロップを総督に選出する。 
プリスマロックに上陸した最初のピリグリムファーザーズは分離主義者だった。
イギリス本土の教会は堕落して命運が尽きていると考えそこから逃げたいと主って世捨て人の気持ちでアメリカにやって来た.。邪悪な世界をあとにして荒野に自分達の救いを求めたのだった。  しかしウィンスロップは全く違う考えを持っていた。
イングランド教会から離れたいと思っていない。この教会はまだ立ち直る事は出来るが、ただ本国では弱っている為ニューイングランドでしかその行動を起こせないと考えた。
したがってニューイングランドの植民地は教会と国家の先駆けとして宗教的にも世俗的にも理想となる社会を作り上げそれを洗礼として旧世界をも改心させ救わなければいけないという考えを持っていた。
我々は丘の上の町だと考えなくてはいけない。世界中の目が我々に注がれている
ウィンスロップの率いた補給隊はニューイングランド史の転向点だった。
彼はこの船団で1000人以上の入植者を選びボストン港周辺の6つの町に定住させる。
中心地となったボストンには町政庁舎を建てミスティック川沿いテンヒルズに24ヘクタールの農場を取得した事をはじめ、他にも土地を手に入れプレッシング・オブ・ザ・ベイ号という船を建造して沿岸交易に使った。
こうして1630年代を通じて更に多くの船が到着して失われたものを補って人口を増加させ新たな町や植民地が形成させていく。
会衆派統治への挑戦
マサチューセッツをアメリカ民主主義の源流とされていたが実際にはピューリタンの指導者の間では支配する者と支配される者はおのずと異なるとみる権威主義的な見方が強かった。 マサチューセッツの非分離派は回心の経験を持つ信徒の連帯を重視して会宗派の教会を作り自由民の資格もその教会員に限定して宗教上の目的を優先する神政政治が実施されていた。
 それゆえ会宗派による統治には二重の意味で挑戦がなされた。
第一は宗教的なもので1631年に移住してきたケンブリッジ出身の牧師ロジャー・ウィリアムズがイギリス国教会から分離しようとしない会宗派を批判した。その上ウィリアムズはインディアンから土地を購入していない事にも疑問を投げウィンスロップら指導者の頭痛の種となりやがて追放される事になる。

ロジャー・ウィリアムス
分離派の1人である彼は1631年にマサチューセッツ湾植民地に移住しセーラムで主任牧師補となった。ウィリアムスは間もなく当時においては常軌を逸したとしたとしか思えない事を言い始めた。それは、イギリス国王にはインディアンが所有する土地を下付けする権限は無いという事、教会と国家ははっきりと分離されるべきだという事、ピューリタンは自らの信仰を他の人々に強制してはいけない事だった。ウィリアムスは1635年にマサチューセッツから追放されナラガンセット湾にプロビデンスというタウンを建設した。彼の信念に基づき後のロードアイランド植民地を構成する事にになるプロビデンスとその他のタウンはユダヤ教を含めて全ての宗派を受け入れる方針をとった。

ウィリアムズが純真な正義感を奔放に飛翔させたのに対し1634年に移住したアン・ハチンソンは会宗派の教義の核心に鋭く挑みかかった。才気煥発なハチンソンの主張する反律法主義は全能の神のみが人の救いを決定するとみる、ジャン・カルヴァンの『予定説』を極端に推し進めて人間の地上での行いは全能の神に何ら関係無いと解釈するモノであった。 この主張はマサチューセッツの政府と教会の道徳的な基盤を根底から揺るがす危険をはらんでいた。 ハチンソンの主張を不吉と予感したウィンスロップら指導者は1637年ハチンソンを総会に召還し審問した上で追放処分とした。

アン・ハチンソン
Anne Hutchinson
(1591 - 1643)

ロジャー・ウィリアムスと同様ピューリタンと意見を異にしたのが(上写真参照)が、アン・マールベリー・ハッシンソンだった。マサチューセッツ湾植民地の正統派に対する挑戦者としては彼女の方が強烈だったという。彼女は熟練の助産婦としてボストンの女性から人気がありジョン・コトンの信奉者だった。コトンは恩恵の契約を重視する牧師だったがこの契約とはとるにたらない全く無力な人々に対して神から無償の贈り物として授かる救済を意味した。(それとは逆にマサチューセッツの聖職者達はピューリタンに神から救いを受ける準備として善行、自省、勤勉に励む事を力説した)1636年ハッチンソンはコトンの説教について話し合う為に自宅で女性達に集まりを持つようにした。これは間もなく男性も加わった。ハッシンソンはコトン以上に恩恵の契約を主張し神に選ばれし者は神と直接対話する事が可能であり、また救いを確かめる事も出来るとさえ信ずる様になった。このような考え方はピューリタンにとってこの上ない魅力となった。ハッチンソンはピューリタンに絶え間無い緊張状態に替えて救いの確かさをを示したのだった.。同時にこのような神への接近方法は教会組織の重要性を低下させる事になった。
ハッチンソンの考えはピューリタンの正当派によって非常に危険なモノだった。そのため1637年11月彼女はマサチューセッツの植民地代議会に召喚された。彼女はそこで植民地の牧師が救いは善行を通して得られると説いている事を批判した罪に問われた。彼女は自分を告発したものに対して鋭く反論し聖書の知識と才気をウィンスロップ本人に向けた。審問会で疲れた彼女は、うっかりした瞬間に神の「直接の啓示」によって」お告げがあったと口にしてしまった。この異端な発言によって彼女の追放は決定的なものになってしまった。彼女の家族は幾人かの忠実な信奉者と共にロードアイランドに追放されてしまった。
マサチューセッツ湾植民地の権力者達はハッチンソンが既存の秩序にとって2重の意味で危険である事に気付いていた。彼女は正統派の信仰を脅かすだけでなく伝統的な女性の役割を崩そうとしていた。ピューリタンでは神の前で誰もが平等でそこには女性も含まれていた。しかしそれと同時に女性はイブの罪によって永久に汚れた存在とされ男性に劣ると見なされてた。キリスト教徒は長い間聖ポールの言葉に従い女性は教会では沈黙を保ち夫に従順であらねばならないという教えを守ってきたがハッチンソンは、その両方に背いた事になっている。


 そのウィリアムズやハチンソンに比べてもマサチューセッツで厳しく弾圧されたのがクェーカー教徒だった。それは平信徒が「内なる光」を通じて神と交信し神の導きを受けるというクェーカー派の信仰が全能の神の教えをひたむきに従う事を旨とするピューリタンの厳格な教義とは相容れなかったからである。
1650年代にボストンに上陸しようとしたクェーカー教徒はただちに植民地外への退去を命じられ1658年から1661年まで3年間には4人が絞首刑に処された。
第二の政治的な挑戦はウィンスロップが自由民の資格を制限した事によりマサチューセッツ建設後間もなく生じる事になる。 ナサニエル・ウォードを中心にして植民地政府の運営を少数の指導者の裁量ではなくて法に基礎つけようとする作業もなされマグナ・カルタ(大憲章)を元にして政府機関の権限と個人の権利を明記した
『自由法典』の編纂が進められた。 1637年に総督であるジョン・ウィンスロップはそのような法令の編纂を時期尚早とみて激しく批判した。しかし総会は1641年に
『自由法典』の採択を決定した。それでもなお、会宗派の教会員でない事で参政権が認められていないイギリス国教徒らの不満は残り総会への請願や講義が公然とされ続けていた。

ロードアイランドとコネチカット
ニューイングランドの他の植民地も立憲主義の発展を独自に推進していた。
マサチューセッツを追放されたロジャー・ウィリアムズはボストンの南のプラヴィデンスに移住しロードアイランド植民地の構想を抱くにつれ異教徒のユダヤ教徒まで含めた信仰の自由を実現したいと考える様になった。 1644年には本国政府から特許状を取得して信仰の自由と政教分離を保証する自治領植民地を建設した。
 また、ピューリタンの牧師トマス・フッカーが中心となり1636年に建設したコネチカット植民地はフッカーの思想を反映して被治者の同意を原則とする基本法を1639年に制定した。コネチカット植民地も1662年チャールズ2世から特許状を与えられ同年ニューヘブン植民地を併合して自治領植民地として発展した。

ニューイングランド植民地の成立

成立年代
植民地名
事項
1620年
プリスマ
プリスマ会社により建設。1691年マサチューセッツに合併。
1630年
マサチューセッツ
マサチューセッツ湾会社により建設。1685年〜1688年及び1691年から王領となる。
1631年
コネチカット
マサチューセッツから分離。短期の王領を除き自治植民地。
1636年
ロード・アイランド
マサチューセッツから分離。短期の王領を除き自治植民地。
1638年
ニュー・ハンプシャー
マサチューセッツから分離。短期の王領を除き自治植民地。
1640年
メイン
マサチューセッツから分離。短期の王領を除き自治植民地。
1668年マサチューセッツに合併。

 

 

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