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大航海時代 |
創造は難しく模倣はたやすい。BY
クリストファー・コロンブス
簡易年表。
| 西暦 | 歴史的事件 |
| 1415年 | ポルトガル、北アフリカの商都セウタを攻略 |
| 1451年 | イタリア、ジュノバにてクリストファー・コロンブス誕生 |
| 1476年 | コロンブス、リスボンへ。 |
| 1479年 | アラゴンとカスティリャが合同〓スペイン王朝に |
| 1488年 | ポルトガル人バトロメゥ〓ディアス、アフリカ南端に 到達。喜望峰と命名。 |
| 1492年 | スペインがグラナダ王国を滅ぼす。 ★コロンブスがバハマ諸島に到達。 |
| 1494年 | トルデシリャス条約。 |
| 1498年 | バスコダ・ガマ、喜望峰経由でカルカッタ到達。 (インド航路開拓) |
| 1500年 | カブラル、ブラジル東海岸に到達 |
| 1506年 | ★コロンブス、病没 |
| 1513年 | バルボア(スペイン)、太平洋を発見。 |
| 1519年 | マガリャエンス、世界周航へ。(〜1522年迄) |
| 1521年 | コルテス(スペイン)、メキシコ征服 |
| 1533年 | ピサロ(スペイン)インカ帝国を滅ぼす |
![]() バルトロメウ・ディアス Bartholomeu Dias (1450?〜1500) |
喜望峰発見〜ポルトガルのアフリカ西岸探検 |
コロンブスの航海 |
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イタリアのジェノバで生まれた船乗りのコロンブス。 当時ポルトガルが東回り航路でインドに到達するべく次々と船を出したのに対し、彼は、西回りでインドに到達する事を計画。スぺインのイサベラ女王の援助を得て出発した。 1492年、現在のバハマ諸島の一角に到達し、「西欧人による新大陸発見」を成し遂げた。4次に渡る航海でカリブ海一帯を探検、中米および南米大陸をのぞむところまで到達した。 彼は自分が到達した場所はインドであると最後まで信じ続けていた。 先住民をインディオ(英語でインディアン)と呼びならすのは、このためであるが、今日ではネィティブアメリカン(アメリカの先住民)と呼ぶべきだという主張が強い。 当時のコロンブスへの評価は第一次航海の帰国の時を除けば一般的に芳しくなく、スペイン領となった植民地での総督といての統治能力も厳しく批判されて告発をうけ、逮捕されてスペインに護送された事もある。 晩年は富も名誉も失い不遇のまま生涯を閉じた。 ★イザベラ女王とコロンブス 1484年ポルトガル国王はコロンブスから出された西回りの航海計画を拒否した。 計画の疑問と言うよりも東回り計画にとりかかったからである。 その為コロンブスはスペインに狙いを絞った。 当時のスペインはカスティリア女王イザベラとアラゴン王フェルナンド二世が夫婦である事で一つの国になりかかっており、カスティリアを夫婦共同統治、アラゴンはフェルナンド二世の単独統治としていた。 カスティリア女王イザベラは南部に残るイスラムのグラナダ王国を半島から最終的に排除する十字軍(国土回帰運動)という問題を抱え、アラゴン王フェルナンド二世は商湾バルセロナを抱えイタリア半島への影響力をフランス王と競っていた。 コロンブスはスペインで不思議な人間魅力を発揮し高僧や有力者の説得に成功しイザベラ女王から生活費を支給されたが返事は、いつも保留された。 6年待たされたコロンブスはグラナダ王国陥落直後1492年1月イザベラ女王から良い返事を貰う事が出来た。 スペインはポルトガルの航海事業に無関心でいたわけではなく大西洋上カナリア諸島はポルトガルとカスティリアが争っていた。(領土争奪) バルトロメウ・ディアスの喜望峰発見はとりわけ気になっていた。 イザベラ女王はその焦りを粘り強く政策化した。 コロンブスの船団は経験豊かな即戦力な船長を率いれ1492年9月6日カスティリア領になっていたカナリヤ諸島を離れ大西洋に乗り出した。 |
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ポルトガルとコロンブス
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15世紀、西欧は外に向けて大きく足を踏み出した。 この背景には、封建社会の危機から抜け出す為にヨーロッパの外に新たな富を得ようとする願望があった。 その先頭に立ったのがスペインとポルトガルだったが、それはこの両国が大西洋に面していてアフリカに近いという地理条件の他にイスラム文化に接してその航海術や天文学の伝統を継承していた事が大きい。 また、はやくから王権が強大化していた事もある。 1415年、ポルトガルの大軍はジブラルタル海峡を渡って北アフリカの商業都市セウタ(モロッコ)を攻略し、イスラム教徒からこれを奪った。 ジョアン1世の21歳になる王子も大航海時代の幕開けとなるこの遠征に参加した。 彼こそ、西アフリカ探検航海を推進し、後に「エンリケ航海親王」と呼ばれた男である。 ★エンリケ航海親王 エンリケは、ポルトガル王、アビス王朝の創始者ジュアン1世の第3王子であり、母親はイギリスのランカスター家の娘、ヘンリー4世の姉にあたるフィリバである。 王家はリスボンなど海港都市に依存し、それもあってイギリスとの親善関係は1973年に修交600年を祝ったほど古い。 ポルトガルの封建所領は王家の収入を増やさないので王家は独自の努力を始めた。 それがジュアン1世による1414年のセウタ(モロッコ)遠征であるエンリケは兄達と共に武勲をたて、有名になった。 これは一種の十字軍でローマ教皇からも評価された。 セウタ確保の必要から西アフリカでの布教と貿易が問題になったエンリケは3人の王(父、長兄ドゥアルテ1世、甥のアフォンソ5世)に仕え、キリスト騎士団長及びポルトガル南端のアルガルヴェ総督という立場でセウタの確保を指導した。 その事業は大まかに二つあり、一つはマディラやアゾレスなど大西洋の島々への植民であり、もう一つがアフリカ西岸の探検と貿易である。 後者については、昔からの『煮える海』『怪物の来襲』といった神話の壁を打ち破る船長教育が必要でエンリケは航海に関する人材を北欧、イタリア、イスラム世界など、宗教、人種を問わず招聘し一種の情報センターを主催したとされている。 エンリケの部下達は1446年ギニアに達しポルトガル発展の基礎固 めをした。 コロンブスは、14歳で船乗りになり、地中海(ギリシャ)、イタリア、イギリス、アイルランド、北海沿岸などに出掛けた。 |
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それからのコロンブス
![]() Vasco da Gama バスコ・ダ・ガマ (1460-1524) ![]() |
最初の航海の成功はスペインで大歓迎を受けるも、 彼の偏屈な性格から直後に紛議に巻き込まれ第二次 から第四次(1493年〜1504年)まで航海を重ねる度 にトラブルが続いた。 実際のインドへ到達したのは東回りのポルトガル人 バスコ・ダ・ガマ(1498年)であったから、インドの富は ポルトガルが入手した。 コロンブスは石頭だった。 『発見した領土は王様に献上致します。 私は副王の称号を持つ総督に任命して欲しい。 また、大西洋の総督にもして欲しい。 新領土の産物をポルトガル本国に運ぶ時は私に1割 の税を欲しい。 新領土からの王様の収入の8分の1は私が頂きます』 といった条件がコロンブスからポルトガル王に提示さ れた。 イザベラ女王にも同じ様な条件を提示した。 更に副王の権利の世襲というまさしく封建社会的要求 も出している。 当時としては虫のいい要求と考えられた。 イザベラ女王は中央集権を目指しており国内の封建諸 候の既得権を全て奪うつもりでいたからこの申し出を 了承したかの様に振舞った。 この事はコロンブスの強烈な個性を通じてしばしば語 られるが、新大陸に対する宗主国の政策の基本的な 流れとも一致するところが多い。 中南米はもちろん、イギリス領土アメリカにおいても領 主植民地という形があったし封建的なヨーロッパがアメ リカ大陸に移植されたという事実はともかく、ひとまず 了承された。 それはいわば町人だったコロンブスの社会的上昇を 考える場合の当然の枠組であった。 コロンブスは植民地行政官、つまり王の官僚としては 落第だったらしい。 ほとんど宗教的な確信から行動し た航海の報告は次第に現実離れし官僚としてのリアリ ズムに欠けていく。 コロンブスは植民地総督の地位も解任され不遇の内 にバリャドリッドで54歳の生涯を終え、いったんセビリア で葬られた後植民地を含む各地を転々として1902年 セビリアの大聖堂で葬られた。 彼が没して半世紀足らずでメキシコ、ペルーで銀鉱山 が発見され、スペインは一躍ヨーロッパ最強の国とな った。 |
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フィレッツェ出身の地理学者 黄金の国ジパング
トスカネリ−−−−−−−−−−−−→イタリア、ジェノバ生まれ←−−−−−−−マルコ・ポーロ
(影響) (影響)
コロンブス |
最後までインドと信じていた。
↑
援助
スペイン女王 |
| エンリケ航海親王 |
東回り航路確保の為
西アフリカ探検航海を推進
ポルトガルの船乗り
ディアス
喜望峰到達
↓
ポルトガルの船乗り コロンブスの死後
バスコ・ダ・ガマ メキシコやペルーで銀の大鉱山発見
インドに到達 スペインの大繁栄