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大陸発見後の領土争奪史

スペイン・ポルトガルの来襲

 

アステカ王朝を侵略するエルナン・コルテススペインにとってアメリカの植民地化は生易 しいものではなかった。 コロンブスが最初に建設し、イサベルと名付けた島の町は、完全な失敗に終わる。 その後、コロンブスは資金が底をつき、国王が後を引き継いだ。 初めて成功した植民地はサントドミンゴで1502年にニコラス・デ・バンドが30隻の船 に少なくとも2500人を乗せて上陸したのが端緒である。 ひとたび上陸拠点または、港が確保されると最初の一手としてアデランタードと呼ばれる 役人が歩数で測りながら道路網の位置を決める。 砦を別として最初に建設される建物らしい建物は教会だった。 聖職者、とりわけドミニコ会とフランシスコ会の托修行士が植民地建設の中で大きな 役割を果たし、早くも1512年には新世界初 の司教区が設置される。 その9年前、国王は、セビーリャに通商院を設立して大西洋にまたがる全事業の中心拠点としてかなりの国家資産を投入した。1520年には少なくとも一万人のスペイン語を話すヨーロッパ人がカリブ海のイスパニオラ 島に住み食糧は、本格的に栽培されヨーロッ パとの貿易もはっきりした形式でできあがっていた。 その前年、エルナン・コルテスは、メキシコの古代文明を襲撃してアメリカ本土へ侵入している
侵略の速度は、速く人類史上最速とも云われた。
アステカ王朝を侵略。
ヨーロッパの来襲は、アメリカ大陸の人口構成、動植物、そして経済に甚大な変化を齎し た。
ちょうど、ヨーロッパ人が黄熱病に弱かった様に先住民のインディオはヨーロッパ人が
持ちこんだ天然痘の感染力になす術もなく  倒れる。
ヨーロッパ人は、世代を重ねる間に対処の仕方を学んでいたが、天然痘の感染力は、並外れ強いことには、変わらずインディオに とっては、まず命にかかわる病だった。 ヨーロッパ人が到着する前のアメリカ大陸にどれだけの人口があったか確かなところは、 判らないが現在のメキシコ国境以北ではイアステカ王朝を侵略するエルナン・コルテスン ディオは疎らに部族単位で居住し多くはまだ 狩猟採集の段階にあって部族間の争いを 繰り返していた。 中には狩猟に加えてトウモロコシを栽培し1年の内の一定期間を村に定住する部族もいたが、全部あわせても100万人位だったという。Hernan Cortesエルナン・コルテス1485年〜1547年

追われいくインディオ達〜スペイン人の本格的殖民



そうした所より南では、社会が遥かに進んでいた。
メキシコのアステカとペルーのインカという二つの帝国があった。 中南米の総人口は、約2000万人であり、数十年 の間に征服とそれが持ち込んだ疫病の為にイン ディオの人口は、200万人または、それ以下に減ってしまった。 征服のごく初期から労働力の供給源としてアフリカ人奴隷に対する需要があった。 天然痘はともかく、歓迎すべきものをヨーロッパ人は数多く伝えた。小麦と大麦、、及びその栽培を可能にする犂(すき)サトウキビとブドウの栽培法、そして何よ りも重要なのが家畜である。
インディオは、犬、アルパカ、リャマを別として動物の家畜化を行わなかった。 ヨーロッパ人は、犂を引く牛を始め、馬、ラバ、ロバ、羊、豚、それに家禽を持ちこんだ ほぼ最初から優秀な馬、、そして1級品のラバやロバが創り出される。 スペイン人は、西ヨーロッパで唯一、馬に乗って家畜の大きな群れを追う経験を持っていた。 それが新世界の目立った特徴となる。ほどなく巨大な牧場が鉱山地帯に大量の食用牛と使役様ラバを供給する様になった。 スペイン人は、インディオを過酷に扱った。 しかし、広大な地域を植民地化するにあたっては一貫した方法をやり通す。 スペイン人に続いて新世界にやって来たイギリス人はその両方の特徴に気付いている


領土争奪、植民地戦争の時代

探検の時代はまた、植民の時代でもあった。 何故なら発見した土地から収益を挙げる為には、その土地に征服又は交易の為の施設を施す事が第一の問題であり、これらの施設がそのまま植民地(コロニー)という形態を取っていた からである。 ヨーロッパからの探検家達は、ただインディオと交易するだけ では満足しなかった。 探検の後、彼等の殆どは現地に残留したが、身の安全を計る為砦と兵士とによって守られる必要があったし、その砦も交易地域拡大の基地となる必要があった。 交易地域の拡大はインディオとの交渉が成立した場合は別として殆どが征服、更にそれによって引き起こるインディオの隷属 化を意味していた。  16世紀の新大陸植民は17世紀の北米植民とは、根本的に違う。 16世紀という時代の植民の特徴は、とにかく征服であり、軍事的植民地の建設に重点が置かれていた。 植民者達は新大陸に恒久的な家庭を作ろうとしたのではなかった。 彼等は比較的短い期間植民地にいたのも本国に帰る事を望んでいた。 ところが、17世紀の北米植民を特徴つけたのは、恒久的な国外移住であった。 植民者達の狙いは一攫千金とか数年後本国に帰るといった様な事ではなくて、小さいながらも植民先で土地 を獲得し家庭を持ち、永住する事だった。 新大陸に創られた初期のヨーロッパ植民地は前者のパターンでその代表は表題の通り、スペインとポルトガルであった。 スペイン国王フェルナンドは1509年の勅命で次の様に言い渡した。 もしもインディオが人民に降伏しなければ我は、我の成しうるあらゆる方法や手段を尽くして汝らへの戦争を行い汝らを教会と王室の支配並びに権力に屈服させるだろう。 我は汝ら、汝らの妻及び汝らの子供を捕らえて、これを奴隷とする』 上記の言葉の様にスペイン人の新大陸収奪は、とてもエゲツなく、また、疾風の如き速さだった。 コロンプスの発見から50年弱で南はホーン岬から北はリオ・グランデ迄本土と島々を含む全地域がブラジルを除き侵略され スペイン人の支配下となった。 スペイン人達が征服した最初の地域はサント・ドミンゴ、プエルト・リコ、キューバ等20有余の西インド諸島の島々だった。 コロンブスが創ったヨーロッパ人の最初の植民地サント・ドミンゴを基地として1509年にはプエルト・リコを1514年にはキューバ をそれぞれ征服しこの地方のインディオを奴隷化した。  彼等のやり方は野火の様に広まった新しい病気とあいまってインディオに致命的な打撃を与えた。 ある者は逃れ、ある者は病死し、ある者は自殺し又ある者は殺された。 初めキューバに30万のインディオがサント・ドミンゴには20万人がプエルト・リコには6万人のインディオがいたが、その殆どが一掃された。 西インド全体では100万人のインディオが失われたと推定され ている。 スペイン修道士バルトメラ・デ・ラス・カーサス クリックすると詳しい説明が別ウィンドウで表示されます。バルトメラ・デ・ラス・カーサスは当時の状況をかなりオーバーかもしれないが、次の様に語る。 『私は確かに聞いた。イスパニョーラ(サント・ドミンゴ)からルケ諸島(バハマ諸島)に行く船は羅針盤が無くても海に浮き沈みしている死体を頼りに航行出来たという事を。』  こうして西インド諸島がまず収奪の舞台となった。 その西インドを基点としてスペイン人の探検と征服は北米にも進められていた。 1519年探検家ピネダは現在のアメリカ合衆国の東海岸に当たる地域に到達してインディオが黄金の飾りをつけているのを発見した。 ついで1528年には探検家ナルバエースがフロリダ地方で黄金を発見した更にナルバエースの部下デ・ヴァカはテキサス平原と北メキシコを横断し1536年には南へ連なるスペイン移住地への道を発見した。  また、ナルバエースの後継となったデ・ソートーは1539年から数年に渡ってメキシコ湾沿岸の沼地を放浪しミシシッピー川西方で死亡した。 この様な努力にも拘わらず北米本土東半分へのスペイン人の探検の成果は、あまりあげられなかった。 ところが正反対にスペイン人が大成功を収めたのはメキシコと南米においてであった。 メキシコ征服はアメリカ大陸本土に対するスペイン人の最初の重要な出来事であり隊長は前出のエルナン・コルテス。 コルテスはサント・ドミンゴとキューバの農園主で貴族の出身だった。 1519年4月コルテスは数百の兵力で今日のベラクルスに上陸しついてアステカ族の主とテノチティトランに向かった。 慎重な策士だったコルテスはインディオ内部に軋轢があるのをよく調べ、巧みにこれを利用した。
僅か数百の兵力はコルテスとの協力を受けたインディオの合流で10数万もの部隊に膨れ上がった。 そしてコルテスの驚異的な成功の鍵がここにあった。 アステカ国王モンテスマは、コルテスを最初は歓迎したが、すぐにとてつもない恐怖に陥る事となった。 アステカ軍は白人の鉄砲や大砲や馬や、又は敵対する同族の武力の前ではヒトタマリもなかった。 彼等は弱腰のモンテスマ王を廃位しクワウテモクを国王に立てて応戦したが戦死者数万をだして兵力の殆どを失った国王は 『叛逆者』として絞首刑に処された。  その結果1521年5月アステカ王朝は滅びた。 高度な文明を持ったインディオの王国はヨーロッパの知恵と科学とで指導された同じインディオの手で滅ぼされた事になる。コルテスの大勝利は全ヨーロッパにスペインの国威を轟かせたばかりかスペイン人がアメリカ大陸本土にしっかりと根を下ろ す基盤となった。そしてとどまるところを知らない征服欲をかきたてる事となった。             
★アタウアルバの悲劇
スペイン人によるアメリカ大陸開始への第二の大きな歩みはメキシコ征服後わずか10年して行われたペルー侵略であった。 今度の隊長はあのフランシスコ・ピサロ1471〜1541フランシスコ・ピサロであり、彼は貴族出身にあらず元は文盲の一介の豚飼いでしかなかった。 ピサロの場合もインディオの内情がつまりは、インカ王位を巡る継承争いの内戦が有利に作用した。(アタウアルバとヴァスカル)コルテスと同様ピサロも慎重な偵察旅行で予め事情を調べ1532年11月わずか180人の兵力で皇帝を称するアタウアルバ王の軍団2万人を奇襲で打ち破った。 完全武装の軍隊に守られてたピサロと丸腰の臣下を従えたアタウアルバとの会見が北部ペルーにあるカハマルカ市の広場で行われた。 ピサロの従軍僧バルベルテがアタウアルバの前に進み聖書を渡しキリストとスペインに忠誠を誓えと強要した。 アタウアルバが憤然として聖書を地面に叩きつけた。  と同時にあたかも『待ってました!』とばかりに大虐殺が始まった。 数千人のインディオが虐殺されたがピサロ軍の兵隊は一人の死傷者もでなかった。この大虐殺でインカ人民は茫然となり帝国への忠誠も無く なってしまった。こうしてピサロは首都クスコを無血占領した。 一方捕らえられたアタウアルバ王は保釈金として高さ22フィート(6.6M)、幅17フィート(5.1M)の独房を『黄金で手の届くまで一杯』にするという約束をさせられ実際それは果たされたが結局火刑は免れなかった。 彼が罪1等を減じられ絞首刑に処されたのはキリスト教への改宗という取引をした為である。アタウアルバの悲劇はアメリカ全体の歴史の中でも極めて残虐な行為だった。 モンテスマ国王Montezuma1466(?)-1520
しかし因果は巡り黄金に目が眩んだピサロの部下たちは飢えた狼の様に仲間争いを始めた。まず部下と彼の以前の腹心アルマグロとの間に内戦が起こり アルマグロ親子は敗れて処刑され、もう一人の腹心アルバラド は毒殺された。 そして最後にはピサロ自身が暗殺され4人の息子も処刑されるか投獄されるという結末に終わった。  このような大虐殺や陰謀や暗殺といった泥沼の中からヨーロッパ文明の旗手としてのスペインがインカ社会の死体の山の上に誇らしげにあらわれた。ペルーでの勝利の後征服者はたった10年でエクアドル、ボリ ビア、チリ、コロンビア、ベネズエラに支配権をうちたて、スペインの勢力は急速に広がっていった。 更に征服者達は、東南のリオ・デ・プラータ『銀の川』にも目をつけ、ペルー征服と同じ頃上流に現在のパラグアイの首都アスンションを少し遅れ下流に現アルゼンチンの首都ブエノス・アイレスを建設した。  しかしラ・プラータ地方に金銀は無く征服者達をひどく落胆させ た。この地方に真の富である農業資源が出始めるのは狂乱の征服時代が終わったずっと後の事である。 しかし、黄金が無かったという事がラ・プラータ地方を南米で最も開発された地域にした一つの理由でもある。

ブラジル建国

ムーア人追放の長い戦いで情け容赦無くなっていたスペイン人はインディオを苛烈に扱った。
しかし、広大な地域を植民地化するあたっては、一貫した方法をやり通す。
スペイン人に続いて新世界にやってきたイギリス人達は、その両方の特徴に気付いている。
 エリザベス朝時代の批評家ジョン・フッカーは、スペイン人の残虐さを次の様に残していた。
 『人間とは思えぬ冷酷さで彼等は、裸の従順な人々を征服した。宗教のためでも国家建設のためでもなく金儲けのために人々を狩りだし、この上なく残虐に虐げ、とても人間とは思えぬ所業で火炙りにして焼き殺す。彼等の歴史にもこれは、明らかである。』それと同時にイギリス人達は、『スペイン人の勤勉と骨折り、あれだけ多くの船を用意する並外れた費用・・・・全てを征服するための絶え間無い補給、あれほど高度で困難なものごとを実行する活発で不屈の精神、そしてもう一つ、殖民への固い決意』を称賛している。
 スペインがアメリカに定着すると、ポルトガルは、後を追うのは当然の成り行きだった。
スペインに攻撃されてはヒトタマリもないポルトガルは、慎重に海外における隣大国との関係を法律上にとどめておくよう努める。
 早くも1479年にはスペイントポルトガルはヨーロッパ以外の地域における各々の貿易圏を規制するための条約に調印している。
 相談を受けた教皇庁は、アゾレス諸島の西約550qに仮想の経線を引き、それより西をスペイン、東をポルトガルに割り当てた。
この裁定は1494年のトリデシャリス条約により二国間で永続化される事になる。
この時カボベルデの西約2000qに線が引き直された。
これによってポルトガルは、南アメリカに現在の
ブラジルの大部分を含む広大な地域を得る。

 

ポルトガル人は遅くとも1500年にはこの地の存在を知っていた。
インド洋に向かっていたポルトガル艦隊が逆風を避けて大西洋に乗り入れた時、驚いた事に上お役の線より東側であきらかにアフリカでない陸地に行き当たったのである。
しかしポルトガルはアフリカ沿岸とアジアや東インドへの航路開拓にかかりきりですでに各地に基地を建設しておりアメリカ大陸に投資する余裕は無かった。
ブラジル最初の植民地が築かれるのは1532年のことで大西洋の島々の殖民地に倣って国王が『司令官』を任命し、彼等がドナトリオと呼ばれる土地払い下げ証書に投資する。この第一波は、大部分が失敗に終わった。  収益が上がって入植者が腰を落ちつけるのは、ポルトガルが奴隷制に基づくサトウキビのプランテーションをカボヴァルデやビアフラ諸島からブラジルのペルナンブコ地方へ移してからの事である。  ブラジルの本格的な大規模開発は、やっと1549年に始まる。
この年、国王は大きな投資を行い、1000人以上の入植者を送り込んでマルテイン・アフォンソ・デ・ソウザを幅広い権限を持つ総督に任命した。
以後、急速で後戻りする事のない発展が続き、大規模な精糖産業が大西洋を横断して成長する。

ブラジルは、16世紀最後の四半世紀に世界最大の奴隷輸入センターとなり以後もその地位を保った。
 そして300年以上に渡ってどこよりも多くのアフリカ人奴隷を吸収。いわばアフリカ系アメリカ人の国となった。
16世紀を通じてポルトガルは大西洋の奴隷貿易を実質的に独占していた。
1600年までに30万人近いアフリカ人奴隷が海路植民地へ運ばれている。
マディラへ二万五千人
ヨーロッパへ五万人
サントメへ七万五千人

そして残りがアメリカである。
この頃になると奴隷5人の内実に4人は“新世界”へ向かっていた。
 ポルトガルが組織し、スペインがサトウキビ農場だけでなく鉱山で使うために支援したプランテーション奴隷の制度は、他のヨーロッパ諸国が新世界に足掛りをつくるより遥か前に確立して着々と拡大していた。
 しかし、スペインがアメリカのの採掘で、またスペインとポルトガルがサトウ貿易で得ていた莫大な富はヨーロッパ中の冒険者をひきつける。

 スペインとポルトガルは、互いの利権範囲を慎重に尊重しどのみち両国の王室は1580年にハプスブルク家のモトに一つとなり利権範囲も合併されるのだが他の国はそのような抑制のとらわれなかった。
大西洋での役得をスペインとポルトガルに分割した教皇裁定が永続する可能性は1520年代と1530年代の宗教改革の時期に北西ヨーロッパの沿岸国がローマへの忠誠を全て放棄したことによって破られる。
プロテスタントはフランスの大西洋沿岸や北海沿岸低地隊の貿易界や港町、又ヨーロッパ最大の商業都市だったロンドン、そしてイギリス南西部の船乗りの間で特によく受け入れられた。

 1561年エリザベス一世の国務大臣だったサー・ウェイリアム・セシルは大西洋に関する国際法を調べ上げ、教皇には裁定を下す権限が無いことをスペイン大使に断固通告する。
  カトリックの主張を原則として無視していたフランスやユグノーの航海者の間には、古くから根強い伝承があって大西洋の中ほどを縦に割る架空の線を越えたところでは、戦争と平和に関する通常の規制が保留になるとされていた。
 この線は教皇の最初の裁定より更に漠然としていて誰もその正確な位置を知らなかった。
 しかし『線の向こうに和平なし』という理論と更に実践が16世紀の世界の現実だった。   だから新世界はほぼその端緒から『法の支配』が適用されない、『血と暴力』が予想される地域だと広く考えられていた。

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