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北米における最初のイギリス定住地は、1607年に建設されたジェームズタウンだった。処女王エリザベス1世の名に由来するこのヴァージニア植民地は、ジェームズ川沿いにあり定住者がチェサピーク湾のタイドウォーター流域に広がっていくようになった17世紀に重要な場所となった。
1606年、国王ジェームズ1世は北米の海岸沿いにあると想定される天然資源の開発を目的とする2集団に特許状を与えた。
商人、貴族、博愛主義者などの多様な人々によるロンドン殖民会社とプリマス殖民会社で翌年、両社ともに探検隊を派遣し1つはメイン州に片やヴァージニア州に到着した。
交易所を設立して貴金属類と共に毛皮、魚、木材などの天然資源を収集する事が目的で両社とも、こういった簡素な目的ですら実現困難である事がわかりプリマス殖民会社は,仕方なくメイン州から撤退した。
そして10年ヴァージニアの定住地は悲惨な状況に陥った。
1607年5月6日最初104人の成人男子と少年がチェサピーク号でやってきた。
その後2年間に少人数の人々が定住地の仲間入りを果たすが彼らは、すぐに富を獲得出来るものと思い込んでおりその欲望に突き動かされていた。
ジェームズタウンはマラリアやその他の病原菌をばら撒く蚊の多い湿地帯と隣接していた。
その上、定住者は食料不足に悩まされていた。
そうした結果、『飢餓の時代』と云われた1609年〜1610年にかけて冬の間に人口は500人から60人(!)に激減した。
ジョン・スミス 彼に関しての詳しい記載は少々お待ち下さい。定住地がなんとか生き延びたのは主にジョン・スミス、後にトマス・ディルの独裁的な指導力による。

ヴァージニアが移住希望者を惹きつけるように根本的な変革が実践された。
定住者にはロンドン殖民会社の株が配布され定住した場合は更に個人の自主性が認められた。
1618年に『頭割権(ヘッドライト)』システムが導入され船賃を支払った新参者に50エーカーの土地が与えられ他の労働者の船賃を代わりに支払った者にも同等の土地が授与された。
フランシス・ワイアット総督は、ポーハタン・インディアンとの血なまぐさい激戦に十分の人員と武器、食料をつぎ込んだ。
1624年国王じぇーむズ1世はロンドン殖民会社の特許状を取り消し王領植民地としてヴァージニアを再編成した。
このような動きによる最終的な変化は殖民地にある程度の安住がもたらされた事である。
大幅に自治を任されたヴァージニアは、急速に発展していった。
『頭割権』システムは大規模プランテーションの発展を促進していった。
しかし広大な土地はあるものの、労働力不足は深刻で17世紀末までに形成された名家支配は労働者の過酷な労働に依存していた。
年季奉公人は決められた年月の4年から7年の労働で船賃を返済したが、彼等がヴァージニアの人口の大半を占めていた。
出世の機会はイギリスより新大陸ではるかに多かったが年季奉公人は搾取される事に不満だった。
1676年のベイコンの反乱は彼らの不満を決定的に印象つけた。
そして一度秩序を回復したヴァージニアは労働力不足を補う為に奴隷に目を向けた。

ヴァージニアとは対照的にニューイングランドは、ユートピア共同体を建設しようという理想主義に燃えて建設された。
ジャン・カルヴァンのイギリスの追随者であったピューリタンは、カトリック教会や英国教会の『腐敗した』状態を拒絶し予定論に基ずいた自分達の宗教を発展させた。
飲酒、賭博、その他イギリス人一般の暮らしに見える様々な習慣を糾弾した。

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